2011年2月12日土曜日

ダイナマイト/クリフ・リチャード



ダイナマイト/クリフ・リチャード

 イギリスのノッティンガムは、ポール・スミスの生まれ故郷である。映画化されてアカデミー賞を受賞した作品の原作『長距離走者の孤独』『土曜の夜と日曜の朝』を書いたアラン・シリトーが生まれた土地でもある。

1958年のことだ。ノッティンガムでは人種暴動が起こっていた。戦争からの復興を急いでいたイギリスにあって、ノッティンガムは工場労働者の街であり、アフリカ、西インドなど旧植民地から安い労働力を利用していた。そこで有色人種による暴動が起こっていた。

そんな時、10年前にインドから移民してきたクリフ・リチャードがスターダムに駆け上った。祖先はイギリス人だが、父はビルマ生まれ、母はインド生まれの家系に育ちクリフ・リチャード自身はインド生まれだった。

アメリカではエルヴィス・プレスリーとロックンロールが事件になっていた。16歳の時、クリフ・リチャードは停車中の車内からエルヴィス・プレスリーの<ハート・ブレイク・ホテル>が聞こえてきたことに触発され自らスキッフル・バンドを結成する。17歳になると、ロンドンのソーホー地区にあるCafe Bar "Two I'S"に出演し、エルヴィスばりのパフォーマンスで注目されるようになる。

58年8月には、EMIと契約。コロンビアレコードからデビューする。クリフ・リチャードは本格的にプロの道を歩みだした。59年にはアルバム「クリフ」をリリース。アメリカ、日本でもヒットした<リヴィング・ドール>のスマッシュ・ヒットを飛ばした。

56年から遅れること3年、59年にはイギリスでも本格的なロックンロール・ブームが巻き起こった。クリフ・リチャードを筆頭に多くのシンガーが参加した。そのバックバンドに後のビートルズもいた。



クリフのバックにはザ・シャドウズがいた。<アパッチ>のヒットは有名だ。シャドウズはアメリカのベンチャーズの向こうを張るバンドで、やがて日本で起こったグループサウンズの礎として<ウオーク・ドント・ラン>のベンチャーズ、<太陽の彼方>のアストロノウツと共に人気を得た。ビートルズ登場前夜、ビートルズがブレイクする下地を作ったと言える。

クリフ・リチャードとザ・シャドウズが組んだ<ダイナマイトDynamite>は、クリフには珍しいストレートなロックナンバーだ。地を這うようなサウンドが駆け巡り、クリフが続いてやってきて、急いで火をつける。ドカ~ン☆☆☆シンプルで楽しいが、鬼平に見つかったら捕まりそうな危ないナンバーだ。B面には、レイ・チャールズの名作<ホワッド・アイ・セイ>を仕込んだシングルは1965年に日本でも大ヒットした。実際に録音されたのは、1959年で1960年には日本でもコロムビアレコードからリリースされている。つまり日本ではレコード会社を変えての再販だったわけだ。

クリフ・リチャードを語るとき、忘れてはいけないのが<ヤングワン>だろう。クリフ・リチャード主演映画「ヤングワン」のテーマソングでもあり、その爽やかなイメージが日本人に好まれた。本家エルヴィス・プレスリーを凌ぐような人気があったのは、日本人がメロディーラインの美しい軽めのポップスを好む傾向にあったことが原因している。しかしアメリカではイギリスほどの人気を得ることはなかった。

日本でのクリフ・リチャードのヒット曲は多い。<レッツ・メイク・ア・メモリー><バチェラー・ボーイ><オン・ザ・ビーチ><ダイナマイト><コングラッチュレーションズ>など出せば堅実にヒット、初期のビートルズ全盛時代に人気があった。